東都芝萬松山泉岳寺赤穂義士墓所之圖(仮題) ベスト 寶永頃刋

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【書名】 東都芝萬松山泉岳寺赤穂義士墓所之圖(仮題)【巻冊】 一枚【著者】 【成立】 寶永頃刋
★ 30.7×42.7㎝
★ 虫損あり
★ 元禄16年2月4日に切腹した赤穂浪士46名が眠る泉岳寺の墓所の圖。
★ 現在は48名分の供養墓があるが、當初はその時切腹した四七名の内、間新六郎を除いた46名分であった。
★ 本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反對に遭い討ち入り前に切腹した萱野重實(三平)の供養墓は明和4年9月に建立された。しかしそれは戒名が書いたなかったために明治期になるまで薩摩藩士の村上喜劍の墓だと思われていた。村上喜劍は京の島原で遊ぶ主君の仇を果たさぬ大石良雄を激しく罵倒した。後に大石の討ち入りを知り京でとった無禮な態度を恥じて大石の墓前で切腹した人物。萱野重實は大高源吾とならんで俳人としても知られ、元禄14年3月14日午前に起きた主君の吉良義央刃傷事件を知り、午後には早水満尭と江戸を出立、早駕籠デ事件の第一報を赤穂へもたらしととされる。江戸から赤穂まで普通の旅人なら17日、飛脚で8日かかるところを僅か4日で走破したと傳わる。
★ この道中3月18日に西國街道沿いの萱野邸を通過する際、前日に亡くなった自らの母親小滿の葬列に偶然にも出くわし、同行の早水満尭に「一目母御ニ會っていけ」と勸められるも、「御家の一大事」と涙ながらに振り切り、使いを續ぇたとする逸話がある。3月19日未明に赤穂到着。
★ 48人めの供養墓は間新六郎光風であるが、切腹後に遺體は義兄の中堂又助が引き取って築地本願寺に葬られたため唯一泉岳寺に供養墓が無かったが慶應4年6月に供養のために建テラレタ。
★ 本圖はその數により明和4年9月以前の刋行が確實だが版式の風合いから建立直後の寶永頃の刋行と推定する。幕末に泉岳寺が藏板した『東都芝萬松山泉岳禪寺略圖』では47名分が描かれている。
★ コメント
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